あんたいい人やね
(富山県 四十万 由美子さん)
 今から22年前、子供の手も離れた頃、介護のこともよくわからず、資格ももたず飛び込んだヘルパー派遣の仕事。その前年に急死した父親を介護することもなく失ったことで、介護を必要としている人の役に立てればよいなと思ったこともヘルパーとして働くきっかけだった。

 ヘルパーになってまだ日が浅いころ、はじめての利用者宅に臨時で訪問することとなった。認知症がありほぼ寝たきりの女性。家族は「認知症家族を抱える家族の会」の会長。それを聞いただけで新米ヘルパーの私は緊張と不安で一杯だった。

 仕事内容は介護者が外出されるのでその間のおむつ交換、清拭と見守り。

 先輩ヘルパーからは、いつも寝ているし話しもできないから、心配することないと。家族からは本人は手をいろいろ動かすかもしれないが遊んでいるだけだから気にしないでと。

 おむつ交換・清拭も終え、そろそろ終了時間、家族からは時間になったら帰ってくださいねと言われている。

 ふと、本人を見ると聞いていた通り手を宙で動かしている。あぁ、これが本人の遊び?運動?と思ってみているとその手を胸に当て押える仕草。顔をしかめているようにも見える。苦しいの?聞いても何も言わない。

 どうしよう。家族へは連絡つかないし、救急車を呼ぶほどでもないだろうし・・・。

 その手が上下し始め自分でさすっている。さすれば楽なのか?私はいろいろな想像をめぐらせながらも本人の衣類を緩めその胸をそっとなで始めた。大丈夫?苦しくない?何を聞いても答えてくれない。帰ってよいという時間にはなっているけれど、心配でずっと顔を見つめながらその胸をなで続けていた。ほどなくして、ずっと閉じていたその目がそっと開き私を見る。そして唇が動いた。

「あんた、いい人やね」

 か細い声だがしっかりと私の耳に届いた。そして宙をつかんでいたその手は私の手に重ねられていた。話せないんじゃなかったの?そのあとは何を話しかけても言葉が返ってくることはなかった。私のしたこと、少しは喜んでもらえたの?

 私はその後、ヘルパー資格を取り、介護福祉士の資格を取り、そして介護支援専門員となり現在、地域包括支援センターで主任ケアマネジャーとして勤務している。仕事を一つ一つ覚えながら、利用者さん、地域の人に関わっている。時には自分の無能さに嘆き、心無い言葉に傷つき、やるせない気持ちになったことも少なくない。そんなとき必ずあの声が聞こえてくる。「あんたいい人やね」

 私は、自分の脳裏にあるその光景を励みに、自分ができる精一杯のことをして行こうと自分を奮い立たせている。そしてこれからも、多くの仲間に支えられて、沢山の利用者さんに関わらせてもらって生きていく。

出逢い
(沖縄県 廣川 星子さん)
 昔の石垣島の生活を語るおばあ。車いすに座って音楽を聴きながら手でリズムを取るおばあ。いつも何かをしていないと落ち着かない元気なおばあ。私の顔を見ては笑うおじい。本当にユニークな人達ばかりである。

 この施設に入社して間もない頃のことだ。1人、どうしても慣れないおじいがいた。毎日、お昼ご飯の時、隣に座っていたのだが、私が「こんにちは」と挨拶しても何も返答はなかった。それどころか表情さえも返ってこなかった。それでも私は毎日おじいの隣に座ってご飯を食べ続けた。

 ある時、先輩からこんな言葉を聞いた。「Hさん(おじい)は最近笑うようになったんだよ。」私には分からなかった。彼女は私がおじいに何をしたの?と聞いた(どうやって笑顔を取り戻したのだという意)私は何も特別なことはしていなかった。ただ隣でご飯を食べ続けていた。

 2ヶ月経った後、私はようやくその意味が分かった。おじいはただ人の輪の中にいることが心地いいようだ。少しだが、おじいの顔が和らぐことがある。今はそれがとても愛おしい。今考えてみれば、私は「何もしなかった」ことが良かったのかもしれない。

 おじいは話す声がささやいているかと思うようなとても小さい声でしか話せないことも分かった。いつしか気づいたのだが、おじいはちゃんとあたしの挨拶を返してくれていた。私が聞きとれていなかっただけなのだ。「こんにちは」と言った後に彼の口は確かに動いていた。「こんにちは」とささやいていた。

 今は、おじいが転ばないように立ち上がる時、座る時、自らサッと手が出るようになった。おじいはしっかりと私の手を握りしめてくれた。それが私にはとてつもなく嬉しかった。

 人はおもしろい生き物だと思う。小さな幸せほど素敵なものはない。お互いがお互いに刺激を与え、常にお互いのことを学んでいく。だから私は人との出逢いが大好きだ。

幸せの瞬間
記憶には残らなくても

(鳥取県 山崎 理恵さん)
 祖母は面倒見がよく、穏やかな性格だ。自分の事より人の事を第1に考える人で、不平・不満を聞いた事がない。親戚の誰もが「昔からいい人で世話になった」と言う。私達3姉弟もそんな祖母に育てられた。いつも優しかった祖母の事がみんな大好きだった。そんな祖母の傍で育ち物心ついた時には『将来おばあちゃんのお世話は私がする!』と決意していた。

 時が流れ、私達の世話をしてくれていた祖母も要介護者となった。食事・排泄・入浴…全ての事において人の手が必要となった。認知症もあり発語にムラがある。若い頃『私の一番の幸せは孫の面倒見て、家族で暮らす事』と言っていた祖母は出掛ける事があまり好きではなく家にいる事を好んだ。外出するにも初めは嫌がるが出てしまえば楽しみ、帰ってきては『楽しかった』と言う。そんな祖母の性格を分かって時々外出に連れ出した。花や歌が好きで家でよく『関の五本松』を歌っていた。

 そんなある日、家族で関に行こうと計画した。五本松がある場所は山の上で道は砂地、階段もある。とても車椅子では上がれない場所だ。しかし上がればツツジが満開に咲いており山の上から見る景色は絶景だ。そんな景色を祖母に見せてやりたいと思い、夫と祖母を車椅子ごとかついで登った。この日の祖母の意思は曖昧で『祖母は喜んでくれるのか、これはただの自己満足の介護ではないのか』と自問自答した。夫は「おばあちゃんがどう思うかは頂上に行ってみんと分からんよ」と言った。

 すれ違う人に「この先は無理だ。やめときなさい」「ここまでで引き返した方がいい」と何度も言われたが、祖母に最高の景色を見せてあげたいという一心で登った。登っている間、声を掛けても祖母の発語はなかった。しかし頂上に着き、満開のツツジを見た途端「綺麗だなぁ~」と一言発し、『関の五本松』を歌った。私の自問自答していた答えがそこにあった。家に帰り「今日どこ行ったっけ?」と聞くと「何処へも行かず家でじっとしとったで」と言われたが、数日後再度尋ねると「ツツジが綺麗だったなぁ~」と話した。

 認知症があり記憶が曖昧だが、あの日頂上で祖母の心が少しでも楽しい・幸せと感じたのならこんな嬉しい事はない。記憶には残らなくてもその瞬間その瞬間を幸せに感じ、祖母の心を満たしてあげられるような介護をしていこうと決めた。

 あれから3年の月日が流れ、祖母も寝たきりとなった。食事が摂れず24時間栄養点滴、バルン挿入、酸素吸入している。外出も難しくなり、毎日歌を歌ったり曾孫と触れ合い過ごしている。若い頃から家族で過ごす事を望み、それが1番の幸せだと話していた祖母を最期まで家族の中で過ごさせてあげ、家で看取ろうと決めている。

私が介護士を目指したきっかけ
(岩手県 甲斐谷 美沙樹さん)
 「介護」とは、大変そう・つらそう等の考えをもたれがちで、実際に私もそう思っていました。しかし、高校生の時、2つの事がきっかけで、介護の道に進み介護福祉士の資格をとろうと決めました。

 1つ目の出来事は、祖父の死でした。耳が遠く、いつも補聴器をしていた祖父にジェスチャーをして食事の時間を教えたり、大きい声で話をしたりしていました。「結婚式は絶対、見たい」と言うのが祖父の口癖でした。私が高校1年生の時、祖父は入院しました。私はお見舞いに行っても何をして良いのか分からずただ立っている事が多かった。病状は良くならず、亡くなる時も「声を掛けて」と言われたが、何を話せば良いのか、力のない祖父を見ていると寂しく、ただ泣いてしまっていた自分がいました。

 あの時、こうしていればと思う気持ちも心の中にあり、人との関わり方を学び、人の役に立つ仕事をしたいと思うようになりました。

 けれど何の仕事をしたいのかも決められない時に起きた東日本大震災。町で一番大きな避難所にいた私は、津波に助けられた人や老人ホームから移動してきた人、様々な事情の人たちと生活することになりました。ライフラインの復旧もできず、地域の人と助け合いながら…。

 高齢者の人たちに言われる事は同じような事で「若いのに朝から夜まで働き続きで大変でしょ。ありがとう。」私たち学生は何度もこの言葉に助けられました。そこで、介護福祉士や社会福祉士の人手が足りない事も改めて知りました。県外から派遣されて来た人もいました。私たちは高齢者に食事を運んだりしました。自分たちにできることを見つけるのがそれぞれ精一杯でした。

 学校が始まり、進路をどうするかと考えた時に介護の道に進みたいと思いました。

 それから専門学校に入学し、介護福祉士としての知識を学んだり、実習で働いている様子や利用者さんの生活状況を見ることにより、早く人の役に立つ仕事をしたいと感じました。

 最近では、母方の祖父も軽度の認知症になってしまい、介護の知識がある私と母で見守っていかなければならなくなりました。身近な人を介護するのは初めてで不安がありますがサポートしていかなければなりません。

 地元沿岸では、介護の人材が不足していると言います。少しでも専門知識を学び介護技術を身に付け地元の地域福祉の活性化に貢献できるようになりたいと思います。

 仕事を辞めてしまったとしても学んだ知識で家族や祖父の生活をサポートし、できる事をしたいです。

 私の家族にも介護が必要になる時が来ると思います。私はその時、プロの介護福祉士として専門知識と技術をもって介護出来るように、決して立ちつくす事がないように頑張っていきたいです。